”俺の師匠みたいな人がいて~”
という流れで、自分のことを彼女や友達に紹介してくれる後輩が自分には数人いる。
その度に、なんとなくこそばゆい感じがあるんだけれども
自分が誰かを支持したーというものがあるとするのならば、大学時代の恩師であろう。
その人の作家性や手法というよりは
”写真”(わざと大きく言ってみたい)を見る楽しみを感覚的に教えてくれた、友達かつグルみたいな人である。
彼女は常識人の皮一枚向こうにクレイジーさが常に覗く人であるが
表面的な付き合いを超えた距離になるにつれ、一定期間毎にその経験の多種多様さに驚かされてきた。
”ディズニーのクリスマスをプロデュースしてたときに”
”某美術大学の卒業試験を二日酔いで受けて”
”超有名映画監督の映画に出ていて”
芸術家でくくれる話ではなく、人としての多様性を示すエピソードの数々。
気づけば彼女と知り合ってもう10年近い付き合いだというのに
先日我が家に鍋を食べに来た彼女の口から2,3件知らない衝撃エピソードが飛び出したときも
”まーたなんでそんな話をもっと自慢しないの”といつも通り驚いた。
作品自体から漂うイメージは、ある意味で一貫している。
元より絵描きとして美大を卒業し、コラージュ技法の作家として世に出て、私が知り合ってすこしした頃にストレートフォトに回帰した。
このように書くと変遷はあるが(当然である)、その中心はずっと一緒のように感じる。
先週、大学内の美術館で行われた展示に寄せた作品を見た時、それは一つ確定的なものになった。
今作にあたって新しい手法に挑戦しており
その経過や、制作に際して相談のようなものを受けていた。
途中経過の仕上がりを直接ではないが、画像越しに見ていたので
展示スペースに置かれた作品と向き合う時、初めましてというよりも、お噂はかねがね、みたいな気持ちであった。
作家として活動している人間、しかし目上かつ恩師という距離で見上げる作品ではなく
少なからず相談をされ制作期間に話をした人の作品をみるという経験は初めてで、
親戚に子供ができるとこういう感じなのだろうかとか考える。
作品になりかけ、と作品として展示されている、では大きな開きがあるんだけれども
仕上がったそれが、明らかに彼女の作品であるという確証と手触りを持ってそこにあった。
なぜそれをその人が作らねばならないかは、作家が自分を認めてやれる最低限のアイデンティティだ
だから誰でも作れるようなものは評価されないし、誰かに似ているものは下に見られる。
新しければいいのかといえば、その人がやる理由と同居できていなければ駄目なわけで
得てして作家は細い道を歩くことになるわけだ。
話がどんどん伝わりづらくなるので、今回自分が見たものが何だったのかというシンプルな形にもどすと
彼女の新作で、彼女のアーカイブになっていくものに違いなかった。
常に好奇心と狂気が一緒にいて、そのどちらもが純粋な興味に端を発す作品
誰かのほうに媚を売らなくても、自分のやりたいことが見えている人の作る作品だった。
なんか長々書いたんだけれども、いい刺激になりました
という話です。
稲葉