2022.01.25
写真
様々な写真雑誌が廃刊していく2020年代にあって
今月新たに創刊した写真誌『写真』。
現代のコミュニケーションツール化した写真と逆行するかのごとく
その物質性と可能性の幅を追い続けている作家、横田大輔が初回の特集である。
プロヴォークに代表される「アレ、ブレ、ボケ」の時代から半世紀あまり
写真をあえて荒れさせ、ブレさせ、ボケさせることでその抽象度の拡大を狙った先人達のフォーマットは
”スタイル”としてPhotoshopのプリセットへと内包されつつあるのかもしれない。
では現代において写真が真に写真らしく振る舞うには何をすべきなのか。
写真にできることの限界はもう見えてしまっているのだろうか。
『写真』そのあまりにストレートな言葉の持つ意味を、紙の媒体の中から問い直そうとしている。
稲葉
2022.01.11
身体性
写真が日常的にスマートフォンで撮るものになって早くも10年近く
写メという言葉があった頃は、写真と携帯で撮るそれには何かしらの線引がされていたように思う。
メールや当時のSNSであるブログ等の為に使われる言語的機能の強いものを写メと呼び
写真はまだ記録や記憶の補助として、何かしらの機会に撮るものというようなニュアンスではなかっただろうか。
しかし現在において、写真はコミュニケーションツールの一つになっている。
いやむしろ動画にその枠すら奪われ始めている気もするが…
紙としての写真を見たことがないという中高生に写ルンですが”しゃるん”と呼ばれ再流行しても
写真は現像後にデータとしてスマホに移され、ネガはどこかに放置されるか捨てられるかである。
その時の状況、気分、雰囲気を共有する手段として写真は使われている。
それも当然のことだろう。
ただ作品として写真を撮ることの意味は、ただ撮るだけでは成り立たなくなってしまった。
スナップやキャンディッドフォトは1億人のスマホユーザーという街なかの目に、一人のカメラマンで太刀打ちできるものではない
衝撃的な出来事、瞬間に居合わせさえすれば誰でも撮れるとすれば何をもってして”写真がうまい”のだろう。
それっぽいものと、本物の間にある隔たりは近づく事があっても消えはしないと信じているが
誰がその差を見極めてくれるのだろうか。
なぜあなたが、なぜフィルムで、なぜそういう写真を撮る意味があるのだろう。
現代写真において、紙であることや物質であることに寄り添ったアプローチが増えている。
評論家は身体性を持った写真という言い方をよく使う。
スマートフォンが体の一部になったデジタルネイティブの撮る写真に身体性はないのだろうか?
稲葉
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