僕には兄弟がなく、両親も一人っ子なので親戚というものがほぼ居ない。
僕にとっての家族というのは自分を含めて3人のことを指していて、友達も少なく引きこもりがちだった少年期から今まで交友の続いている人に至っては数えるほど。
そんな僕のことを幼少の頃から知っていて、小さかった僕がねーちゃんと慕っていた人が1人いる。
彼女は家を継いで医師免許を取り、先代のお父さんが3月いっぱいで病院を閉めることになった今年、開業する事になった。
田舎の町医者が50年を過ごしてきた場所には、僕なんかの想像のつかないくらいの風景が詰まっているように感じて
それは同時に僕が慕ったねーちゃんの家でもある。
そんな場所が未来のために壊されていく。
それは本当は幸せなことだけれど、どうしても名残惜しさは消えないものだと思う。
作品を撮るときは何時もエゴと理屈をこねて、それでいて作品の影に隠れて、どこにも作家は居ませんよ、みたいなスタンスでいるのだけど
今回はどうしても私情と想像を隠しきれないままに写真を撮っていた。
写真は”コレ化”する事だ。と中平卓馬が語っていた。
「普通コレは猫です」が通常の認識だとすれば、写真的認識とは「猫はコレです」であり
「鳥はコレです」「浮浪者はコレです」の「コレです」において浮浪者と猫は等号で結ばれる。
その世界は人間的な区別が消え失せ、等価な”コレ”だけが純粋な差異として反復される狂気の世界だ。
誰かの大切な人、誰かの特別な場所、そのすべてが写真の中にはコレとして実在する。
記念という名の記録のもとに、僕もその大切をコレにする時間について考えていた。
稲葉