それがライトニン・ホプキンスのギターであれ、アンリ・マティスの青であれ、ナイツの言い間違い漫才であれ、優れた芸事には、必ず作者その人の声がある。
声はその人だけが発明した情報伝達ツールで、高くしたり低くしたり伸ばしたり縮めたりと実験を繰り返す限り、声はマンネリに陥ることなく深みを増す。
稲葉と相方のリョウタ君からなるporriMの個展に行って、一つの作品が目に留まった。
冷凍トラックを大型のピンホールカメラに改造して撮影した、縦7枚×横7枚=49枚のポラロイドで1枚の絵になる、大きな、干潟に佇む男の風景写真。
その作品の近くに寄って、ポラロイドを1ピースずつ、更にその1ピースを子細に、又は遠く離れて49枚を俯瞰で、それを何度も繰り返し眺めた。
男が佇む角度、一つ一つの線や現像の染みの位置や色合いのニュアンスを、目をつぶっても記憶出来るまで、一つの作品だけを長い事。
自家製カメラゆえの精度か、セピア調の空も海も砂浜もコンクリートの歩道も、境界線がひどく曖昧で、幾つもグラデーションが重なって見える。
そして現像液の染みが大小のドット状に、又はカーテン状に線を作っていて、それらが、どんよりとした地平線や砂浜等に突然と、ポラロイド数ピース分にわたり、ランダムに発生している。
染みは、いくら画角を決めて露出を測ったところで、2人がコントロールできない「事故」だ。
地面らしい場所にある黒い斑点を、現像の際に起きたものか尋ねると、泥の中にいる生物の空気穴だった。
そんな風に長い事観ていると、現実の風景と、作品化する際に生じる「事故」の境界が曖昧になる。
ぼんやりとした風景の中に生じる不確定要素の浸食による、リアリティの曖昧さ、それはこの世のようであの世のような、死んでるように生きていて生きてるように死んでいる者の、心象風景にもとれる。
トラックをカメラに改造した時、稲葉とリョウタ君は、おそらく自分の声を取得した。
それはまだ赤ん坊の産声のようで、洗練とほど遠い。
2人の声は、これから研磨され言葉を発するのか、更にワイルドな獣の咆哮となるか。
ひと先ずその産声に「やったやん」と言いたい。
山下